AIR-pianoブログ

家庭不和。浪人・留年・鬱病・貧困を乗り越え、何とか研究室を卒業。卒業してすぐ高校の同級生と入籍し、その後就職。既婚就活、既卒就活。グローバルで自由な環境で働いていて、楽しく暮らしている。困っている人が差別されない世の中を願っています。

被差別側と差別側、社会倫理を学ぶべきはどちら?

私の考えで、いじめや差別されやすい人のほうが、社会的に強い立場で生きてきた人よりも、頭がよく優秀なことが多い。ふつーにハンデの中でものごとをやってるから当たり前なんだけどね。長距離走を、いつも重りつけて走ってる人のほうが、重り無しで同じタイムの人より、ほんとは速いじゃん。

 

だから、悲しいけど、いじめる側や差別する側は、頭が悪く、バカなんだ。そこは仕方がない。私的に、無駄な差別や攻撃をしないというのは賢さや優秀さのひとつだから、もうどんなに東大生とかハーバード大生とかでも、人を支配し攻撃し不幸にする時点で無駄で非生産的だから、バカだね。で、

 

すごく悔しい考えだけど、上記の「被差別者のほうが優秀で賢い」という理屈に基づけば、、差別構造をなくすための学びや行動、相互理解の推進も、被差別者のほうが得意で、能力があるというね。 噛み砕いて言うと差別をなくす運動は被差別者じゃないと能力的にできない。差別者は頭が悪いから。

 

あー。でもベストは、「差別サイドの属性だけど賢い人」が差別をなくしていくことだね。それは人数がかなり少ないんだけどね。組織の中に0人ということもあるから、いればベストという感じか。本当に脚が速い上に重りもつけてない人たち。もちろん一番強いよね。

 

被差別者は重りをつけて走ってるから能力は重り無しの人ちより平均的に高い理論、当たり前のことしか言ってないけど、自分としてはけっこーラクになる考えなんだ。重り外れたらめっちゃ無双できるし。重りのせいで、遅くなってる人へも、頭がよく優秀だというリスペクトやプライドを与えられるし。

 

もちろん体が故障してしまうひともいるから、重りなんてつけて走るべきじゃない前提で言ってる。

被差別者、被害にあって悲しいし、メンタルがやられててすごいつらいんだけど、その人たちこそ、多様性とか差別について、勉強すべきだと思うんだ。ホントは差別してきた属性のやつらが責任持って勉強しろよってそりゃ思うよ。でもごめん、自分から気がつくほどあいつら賢くないんだ。頭が悪いから。

 

 

勢いでこのまま書き続ける。最近、「なぜ人権問題やマイノリティ、心理学などのワードを出すと突然黙る人が多いのか?」と旦那と話し合った。彼は心理学部出身の男性で、心理学に抵抗あるとか、こっぱずかしいとか、そういう余計な考えのない、すっきりした人だ。彼は、「人権や平等関係のワードを

 

→聞くだけで、自分たちの中に無意識にある差別心、いままでしてきた差別、に向き合うのが怖いからシャットアウトするんだ、差別や人権問題、心理学を学ぶことは、自分の悪いところを認めて向き合う作業でもあるから、罪悪感でできないひとも多い、だから特に差別してきた男性は避けてしまう傾向ある」

 

と言ってた。そうか、社会的強者にも差別問題を勉強させるには、彼らの罪悪感からくる「無意識の抵抗感」を少しでも少なくし、垣根を低く「してあげないと」いけないんだ、と私は思った。こっちは傷心なのに全く骨が折れる話である。。けど、私は重りをつけてもなお脚が速いから、できるのかもしれない。

 

人権や平等、差別などに関心あるが、一言でうまく表したいな.…「そういう」勉強としか言いようがない

垣根を低くするにはどうする?
まあなんでもいいから「そういう情報」を、それこそ無意識に洗脳的に出していくのがいいんだろうな。会話の端々に。組織の教育に。行動に。一緒に見るコンテンツに。

 

ジェンダー平等を目指す男と友達になろう。
エマ・ワトソンを支持する男を探そう。
lgbtqの友達がいる、ally(理解者)と友達になろう。
黒人差別に怒る白人やアジア人と友達になろう。
そういう人が大事だ。